「神と人のあいだ」第1話
《第5章 第1話|神と人のあいだ》
失われた「待つ」感覚
子どもの頃、祖母の家で迎える正月には、いつも名状しがたい緊張感が漂っていた。現代の私たちが忘れてしまった、あの独特の空気である。
門松を立て、しめ縄を張り、座敷を清め終えた大晦日の夜。家族は皆、何かを待っているような表情を浮かべていた。テレビもない時代、静寂の中で時が過ぎていく。そのとき祖母が口にした言葉が今でも耳に残っている。
「お正月様が来なさる」
その「来なさる」という言葉の響きに、私は妙な畏れを感じていた。まるで目には見えない何かが、確実にやってくることを予感させる響きだった。
あれから何十年も過ぎた今、民俗学を学ぶ中で気づいたことがある。祖母が待っていたもの、それは決して漠然とした「正月の雰囲気」などではなかった。日本人が古来より信じ続けてきた、ある特別な存在だったのだ。
日本列島を駆け抜ける「来訪神」たち
正月に「来るもの」への信仰は、この列島の津々浦々に根深く息づいている。その最も分かりやすい現れが、各地に残る「来訪神」の存在である。
秋田男鹿半島のナマハゲは「泣く子はいねがー、親の言うこと聞かね子はいねがー」と大声で家々を回る。その恐ろしい形相と野太い声に、子どもたちは震え上がりながらも、どこか神聖なものを感じ取っている。
九州南部から奄美にかけて現れるトシドンは、子どもたちの一年間の悪事を事細かに数え上げながら諭す。まるで一年中見守っていたかのような詳細な知識に、大人たちでさえ驚かされる。
沖縄のマユンガナシは旧正月に集落を練り歩き、悪霊を払いながら新年の安寧を祈る。その姿は恐ろしくもあり、同時に頼もしくもある。
形は違えど、彼らはすべて「異界からの来訪者」という共通の性格を持っている。そしてここに、日本人の宗教観の根幹を成す重要な要素が隠されているのだ。
なぜ「恐ろしい神」なのか
これらの来訪神たちを見て、多くの人が不思議に思うことがある。なぜ神々は、こんなにも恐ろしい姿をしているのだろうか。
現代の私たちが思い浮かべる「神様」のイメージは、優しく慈悲深い存在である場合が多い。しかし、日本古来の神々は決してそうではなかった。むしろ恐ろしく、時に理不尽で、人間の理解を超えた存在として畏れられていた。
ナマハゲは子どもたちを震え上がらせる。トシドンは容赦なく叱り飛ばす。マユンガナシは不気味な踊りで人々を圧倒する。しかし同時に、彼らは豊穣と平安をもたらす聖なる使者でもある。
この二面性こそが、来訪神の本質なのだ。神とは本来、畏怖すべきものであり、同時にありがたいものなのである。この「畏れ多い」という感覚が、現代の私たちには理解しにくくなっている。
折口信夫が見た「まれびと」の世界
これらの来訪神を学問的に体系化したのが、民俗学者の折口信夫である。彼は、これらの存在を「まれびと」と呼んだ。
「まれ」とは「稀」であり「客」である。つまり、滅多に来ない貴重な客人という意味だ。遥かな異界から訪れ、この世に新たな生命力をもたらす存在。それが「まれびと」なのである。
折口によれば、まれびとは年の境目という特別な時間に現れる。なぜなら、年の境目は時間が「切れる」瞬間であり、日常の秩序が一時的に停止する神聖な時だからだ。
この時、異界と現世の境界が薄くなり、神々が人間界に降臨しやすくなる。共同体の罪や穢れを祓い清め、新しい年の始まりを告げる役割を担う存在として、まれびとは現れるのである。
家に入る神の意味
来訪神の行動パターンには、興味深い共通点がある。彼らは必ず「家の戸を叩き、敷居をまたぎ、囲炉裏の前に座る」のだ。
この一連の所作は、単なる演出ではない。内と外、日常と非日常、人間界と神界を結ぶ神聖な儀礼なのである。
「戸を叩く」行為は、外の世界(異界)から内の世界(人間界)への参入を告げる合図である。「敷居をまたぐ」ことで、神は家の一員として迎え入れられる。そして「囲炉裏の前に座る」ことで、家族の中心である火の神との対話が始まるのだ。
実際、多くの地域で来訪神は家の中でもてなしを受ける。酒を振る舞われ、食べ物を供えられ、家族の話を聞く。これは神と人とが直接的に交流する、極めて親密な宗教体験なのである。
現代に失われた「神を待つ心」
ところが現代の正月はどうだろう。私たちは依然として正月の準備をする。門松を立て(多くは購入品だが)、おせち料理を用意し(多くは既製品だが)、初詣に出かける。しかし、果たして私たちは本当に「何かを待って」いるのだろうか。
現代の正月準備は、多くの場合「年末年始休暇を楽しく過ごすため」の準備である。門松は百貨店で買い、おせちはコンビニで済ませ、神棚には誰も手を合わせない。正月飾りは残っても、もはや誰も「来るもの」を待ってはいないのが実情だ。
テレビからは除夜の鐘が流れ、スマートフォンには新年の挨拶が踊る。確かに「正月らしさ」は演出されている。しかし、そこに畏れはない。ありがたさもない。
「待つ」ことの宗教的意味
では、かつて日本人が正月に「待って」いたものの正体とは何だったのだろうか。
それは、単に来訪神の訪問だけではない。もっと根源的な何か、つまり「新しい時間の到来」そのものだったのではないだろうか。
古い暦では、一年の終わりと始まりは、単なる時間の区切りではなく、宇宙的な死と再生の瞬間だった。古い年が完全に死に、新しい年が誕生する。その劇的な転換点に立ち会うことが、正月を迎えるということだったのだ。
だからこそ、人々は心身を清め、家を清め、すべてを整えて「その瞬間」を待った。新しい時間、新しい生命力、新しい可能性の到来を、息を殺して待ち続けたのである。
消えゆく来訪神たちの現在
現代において、伝統的な来訪神の多くは存続の危機に瀕している。少子高齢化、都市化、生活様式の変化により、これらの民俗行事を維持することが困難になっているのだ。
しかし、興味深いことに、一部の地域では新しい形での「再生」も起きている。観光資源として注目を集め、地域振興の核となっているケースもある。また、ユネスコ無形文化遺産への登録により、国際的な関心も高まっている。
形を変える「来訪」体験
現代の都市部に住む私たちの前に現れるのは、もうナマハゲでもトシドンでもない。しかし、それでも何かは「来る」のだ。
新しい時間が来る。新しい可能性が来る。新しい出会いが来る。新しい課題が来る。予期せぬ出来事が来る。そしてもしかすると、忘れかけていた畏れとありがたさが、再び私たちの心を訪れるかもしれない。
現代人も、本質的には同じ体験をしているのではないだろうか。ただし、それを「神の来訪」として意識することはなくなった。しかし、新年への期待感、不安感、心新たにする気持ちなどは、古代から続く「まれびと」への感情と根底でつながっているはずだ。
「境界」を越えてくるもの
民俗学の観点から見ると、来訪神の最も重要な特徴は「境界を越えてくる」ことである。
彼らは異界から現世へ、外から内へ、非日常から日常へと境界を越えてやってくる。そして、その境界越えの瞬間に、新しいエネルギーが生まれるのだ。
現代の私たちの生活でも、様々な境界越えが起きている。年末年始は最も分かりやすい時間的境界だが、それ以外にも転職、転居、結婚、出産など、人生の節目には必ず境界越えが伴う。
これらの場面で私たちが感じる緊張感、期待感、不安感は、実は古代の人々が来訪神を迎える際に感じていた感情と本質的に同じなのかもしれない。
現代の「敷居またぎ」
来訪神が「敷居をまたぐ」行為は、境界越えの象徴的表現である。現代でも、私たちは日常的に様々な「敷居」をまたいでいる。
新しい職場の門をくぐる時、初めて訪れる家の玄関をまたぐ時、病院の診察室に入る時、結婚式場に足を踏み入れる時。これらの瞬間に感じる独特の緊張感は、神聖な空間に入る際の畏れの感情と通じるものがある。
つまり、来訪神の体験は決して過去の遺物ではなく、現代の私たちの日常に形を変えて継承されているのだ。
「もてなし」の深い意味
来訪神の民俗を理解する上で欠かせないのが「もてなし」の概念である。
多くの地域で、来訪神は家に招き入れられ、酒や食べ物でもてなされる。時には一晩中語り合うこともある。この「もてなし」は、単なる礼儀ではない。神と人とが交流し、相互に影響を与え合う神聖な行為なのだ。
もてなしを通じて、人は神に日常の報告をし、悩みを相談し、来年への願いを託す。一方、神は人に教えを授け、励ましを与え、新しい力を授ける。これは、まさに「神人共食」の思想である。
現代に生きる「もてなし」の心
現代の日本人が「おもてなし」を重視するのは、この古い宗教的感情の名残りかもしれない。客人を迎える際の心構え、準備の仕方、接し方には、来訪神をもてなしていた時代の記憶が深く刻まれている。
新年に友人や親戚を迎える時、私たちは無意識のうちに「もてなし」の作法を実践している。家を清め、特別な料理を用意し、心を込めて接客する。これらの行為には、神を迎える時の敬虔さが、世俗化された形で表れているのだ。
「時間」をめぐる神話
来訪神信仰の背景には、時間に対する独特の理解がある。
古代の人々にとって、時間は直線的に流れるものではなく、循環するものだった。特に年の境目は、時間が一度「死んで」、新しく「生まれ変わる」瞬間として理解されていた。
この「時間の死と再生」の瞬間に、異界から神々が降臨し、新しい時間に生命力を注入する。それが来訪神の役割だったのだ。
現代人の時間感覚
現代の私たちは、時間を「進歩」や「発展」の概念と結びつけて理解することが多い。新年は「さらなる向上」のための出発点であり、過去は「克服すべき段階」として位置づけられる。
しかし、時として私たちも循環的な時間感覚を体験する。同じ季節が巡ってくる時の懐かしさ、毎年恒例の行事に感じる安らぎ、古い記憶が蘇る瞬間などは、直線的時間観だけでは説明できない感情である。
正月という「特別な時間」への憧憬は、この循環的時間感覚への回帰願望なのかもしれない。
「穢れ」と「清め」の思想
来訪神のもう一つの重要な機能は「穢れ祓い」である。
一年間の間に人間が犯した罪や溜め込んだ穢れを、来訪神が祓い清める。これによって、新しい年を清浄な状態で迎えることができるのだ。
ナマハゲが「悪い子はいねが」と叫ぶのは、単なる脅しではない。子どもたちの心の中にある「悪い部分」を見つけ出し、それを清めるための宗教的行為なのである。
現代の「清め」の必要性
現代人も、定期的な「清め」の必要性を感じている。年末の大掃除、新年の目標設定、心機一転の決意などは、すべて「清める」行為の現代版と言えるだろう。
しかし、現代の清めは主に物理的・精神的なものに留まっている。宗教的・霊的な次元での清めの感覚は、多くの人にとって薄れてしまった。
それでも、新年に特別な気持ちになる私たちの心の奥には、「清められたい」「新しく生まれ変わりたい」という原始的な願望が眠っているのではないだろうか。
共同体の絆を結ぶ力
来訪神信仰のもう一つの重要な側面は、共同体の結束を強める効果である。
来訪神の行事は、村全体、集落全体で行われる。準備から実施、後片付けまで、すべての住民が役割を分担し、協力し合う。この共同作業を通じて、普段は希薄になりがちな近隣関係が再び結ばれるのだ。
特に子どもたちにとって、来訪神の体験は強烈な共同記憶となる。恐怖と安堵を共有し、大人たちに守られる体験を通じて、自分が共同体の一員であることを実感するのである。
現代社会における共同体の希薄化
現代社会では、伝統的な共同体が解体し、個人化が進んでいる。隣近所との関係は希薄になり、地域の行事への参加率も低下している。
しかし、災害時に発揮される日本人の連帯感や、地域のお祭りに集まる人々の表情を見ると、共同体への帰属意識は完全に失われてはいないことが分かる。
新年という特別な時期に、家族や親戚が集まり、共に過ごす習慣も、この共同体意識の現れと言えるだろう。形は変わっても、「みんなで特別な時間を共有する」という本質は受け継がれている。
恐怖と安心の共存
来訪神信仰を理解する上で興味深いのは、恐怖と安心が巧妙に組み合わされていることである。
子どもたちは来訪神を恐れるが、同時に大人たちに守られているという安心感も味わう。恐怖によって日常が破綻する一方で、最終的には秩序が回復され、より強固な安定がもたらされる。
この「恐怖→保護→安心」のサイクルは、人間の心理的成長にとって重要な体験である。適度な恐怖と、それに続く安心感は、子どもの精神的発達を促進する効果がある。
現代人の「ほどよい恐怖」体験
現代人、特に都市部に住む人々は、「ほどよい恐怖」を体験する機会が減っている。生活は快適で安全になったが、同時にスリルや緊張感も失われた。
その結果、人工的な恐怖体験(ホラー映画、お化け屋敷、絶叫マシンなど)への需要が高まっている。これらは、来訪神が提供していた「安全な恐怖体験」の代替品と考えることもできる。
ただし、現代の恐怖体験には「神聖さ」や「意味」が欠けている。単なる娯楽に留まり、人格的成長や共同体の絆につながることは少ない。
「見えないもの」への感受性
来訪神信仰の根底には、「見えないもの」への感受性がある。
神々は物理的には存在しないが、人々はその存在を確信している。風の音、戸の軋み、影の揺らぎなど、些細な現象に神の気配を感じ取る感受性が、この信仰を支えているのだ。
この感受性は、詩的想像力や宗教的直観力の源泉でもある。目に見える世界の向こうに、より深い現実があることを感じ取る力である。
現代人の感受性の変化
現代人は、科学的思考によって「見えないもの」への感受性を抑制するよう訓練されている。超自然的な現象を否定し、すべてを合理的に説明しようとする傾向が強い。
しかし、完全に合理化された世界で生きることの窮屈さも感じている。だからこそ、パワースポット巡りやスピリチュアルブームなどが起きるのだろう。
来訪神信仰は、この「見えないもの」への感受性を健全に保つ、優れたシステムだったのかもしれない。
現代に甦る「まれびと」の可能性
では、現代の私たちにとって「来訪神」「まれびと」とは何なのだろうか。
それは、予期せぬ出会いかもしれない。人生を変える本との出会い、運命の人との出会い、新しいアイデアとの出会い。これらはすべて「異界からの来訪者」と言えるだろう。
また、自然災害や病気など、困難な出来事も一種の「来訪神」かもしれない。恐ろしく理不尽でありながら、同時に人生に新しい意味や価値観をもたらす存在として。
さらには、芸術作品や音楽、美しい風景との出会いも「まれびと」体験と言えるだろう。日常を超越した何かが心に降りてくる瞬間である。
「待つ」姿勢の回復
現代の私たちに最も必要なのは、「待つ」姿勢の回復かもしれない。
現代社会は「効率」と「即時性」を重視する。すべてを計画し、コントロールし、予測可能にしようとする。しかし、本当に価値のあるものは、往々にして予期せぬ形でやってくる。
新しい年を迎える準備とは、本来、未知なるものを迎え入れる覚悟を整えることだった。掃除をし、供え物を用意し、心身を清めて待つ。その営みの中に、人は自らの小ささと、それを包む大いなるもののありがたさを感じ取っていたのだろう。
正月という「時間の聖地」
正月は、一年の中で最も「神聖な時間」である。日常の時間が一時停止し、特別な時間が流れ始める。
この時間の中で、私たちは過去を振り返り、未来を展望し、現在の自分と向き合う。そして、何か新しいものが生まれることを期待する。
現代人にとって正月は、年に一度の「時間の聖地」巡礼なのかもしれない。日常の忙しさから離れ、ゆっくりと時間を味わい、生きることの意味を考える貴重な機会である。
「神を待つ時間」の意味
正月とは、人が神を待つ時間である。そして、その「待つ心」にこそ、私たちが受け継ぐべき大切なものが宿っている。
神を待つとは、自分を超えた何かの存在を認めることである。自分の力だけでは解決できない問題があることを受け入れることである。そして、その何かに対して心を開くことである。
このような姿勢は、現代人が失いがちな謙虚さや畏敬の念と深く関わっている。技術の進歩により、人間は多くのことをコントロールできるようになった。しかし、それゆえに「自分を超えた何か」への感受性を失いつつある。
終わりに:失われた畏敬を取り戻すために
現代の私たちが正月に感じる特別感の正体は、古代から続く「まれびと」への憧憬なのかもしれない。
ナマハゲやトシドン、マユンガナシたちは、確かに姿を消しつつある。しかし、彼らが体現していた「異界からの来訪」という体験の本質は、形を変えて私たちの周りに存在し続けている。
重要なのは、その存在に気づく感受性を失わないことである。予期せぬ出会い、突然の閃き、心を揺さぶる体験、困難の中で見つけた希望―これらすべてが現代の「まれびと」なのだ。
新しい「もてなし」の作法
では、現代の私たちは、どのように「まれびと」をもてなせばよいのだろうか。
まず必要なのは、心の準備である。新しい出会いや体験に対して開かれた心を持つこと。予定や計画に縛られすぎず、偶然や直感に身を委ねる余裕を作ること。これが現代版の「家を清める」行為なのかもしれない。
次に大切なのは、「待つ」ことを学ぶことである。すぐに結果を求めず、じっくりと時間をかけて関係を育てること。SNSの「いいね」やビジネスの成果のような即座の反応を期待するのではなく、深いところで何かが動き始めるのを信じて待つ忍耐力である。
そして、感謝の心を忘れないことである。日常の小さな出来事にも「ありがたさ」を見出す感受性。これが、神々への「供え物」の現代的な意味なのかもしれない。
都市に住む現代人の「来訪神」体験
都市部に住む現代人にとって、伝統的な来訪神に出会う機会は限られている。しかし、都市には都市なりの「来訪神」体験がある。
満員電車で偶然隣り合わせた人との何気ない会話が、人生の転機になることがある。書店で何気なく手に取った本が、価値観を根底から変えることがある。街角で聞こえてきた音楽が、忘れていた感情を呼び覚ますことがある。
これらの体験は、一見すると偶然の産物に見える。しかし、民俗学的な視点から見れば、すべて「まれびと」の訪問なのである。問題は、私たちがそれを「ただの偶然」として軽視してしまうことである。
デジタル時代の「境界越え」
現代の「境界越え」は、物理的なものから情報的なものへと変化している。
インターネットを通じて、私たちは瞬時に世界中の情報にアクセスできる。SNSでは、まったく知らない人との出会いが日常的に起こる。これらも一種の「境界越え」体験と言えるだろう。
しかし、デジタルの境界越えには、物理的な境界越えとは異なる特徴がある。それは「軽さ」である。クリック一つで別の世界に移動でき、気に入らなければすぐに離れることができる。この軽やかさは利便性をもたらすが、同時に体験の深さを奪う側面もある。
来訪神が「敷居をまたぐ」時の緊張感や、「囲炉裏端に座る」時の親密さを、デジタル空間で再現することは難しい。しかし、だからこそ意識的に「深い体験」を求めることが重要なのかもしれない。
季節感と宗教的感受性
来訪神信仰は、季節の変化と深く結びついている。正月という「冬の最深部」に神々が訪れることの意味を考えてみよう。
冬は死の季節である。草木は枯れ、動物は眠り、人間も屋内に閉じこもる。この「小さな死」の時期に、新しい生命力が注入されることで、春の再生が準備されるのだ。
現代の都市生活では、季節感が希薄になっている。エアコンにより室温は一定に保たれ、スーパーマーケットでは一年中同じ食材が手に入る。しかし、それでも私たちの体と心は、季節のリズムを記憶している。
現代人の「冬ごもり」と「春待ち」
現代人も、無意識のうちに「冬ごもり」と「春待ち」のサイクルを繰り返している。年末年始の休暇は、現代版の「冬ごもり」と言えるだろう。日常の忙しさから離れ、内省の時間を過ごす。
そして、新年の目標設定や新しい挑戦への意欲は、「春待ち」の気持ちの表れである。冬の間に蓄えたエネルギーを、新しい活動に向けて解放しようとする衝動なのだ。
このサイクルを意識的に生きることで、現代人も季節と調和した生活を取り戻すことができるかもしれない。
子どもたちに伝えるべきもの
来訪神信仰の重要な側面の一つは、子どもの教育効果である。恐怖と安心、規律と愛情、個人と共同体など、複雑な人間関係の本質を子どもたちに教える優れた仕組みだった。
現代の子どもたちは、このような「全人格的」な教育体験を受ける機会が少ない。学校教育は知識の伝達に偏りがちで、宗教的・精神的な体験は軽視される傾向にある。
しかし、子どもたちが成長する過程で、「自分を超えた何か」への畏敬の念を育むことは極めて重要である。それは必ずしも宗教的な形である必要はないが、何らかの形で「聖なるもの」への感受性を養うことは必要だろう。
現代版「まれびと」教育の可能性
現代の教育現場でも、「まれびと」的な体験を提供することは可能である。
自然体験学習では、子どもたちは文明の利器から離れ、自然の力の前で自分の小ささを実感する。芸術鑑賞では、美の力によって日常的な感覚が打ち破られる。ボランティア活動では、他者への奉仕を通じて自己を超えた価値を発見する。
これらの体験は、形は違えど来訪神体験と本質的に同じ構造を持っている。日常を超えた何かとの出会い、それによる価値観の変化、そして新しい自分の発見である。
グローバル化時代の「土着性」
グローバル化が進む現代において、来訪神信仰のような「土着的」な文化の価値を見直すことは重要である。
世界中どこでも同じような商品が売られ、同じような情報が流れる時代だからこそ、その土地固有の文化や感性が貴重になる。来訪神信仰は、日本列島という特定の風土の中で育まれた独特の宗教的感受性の結晶なのだ。
ただし、「土着性」を強調することは、排外主義や文化的優越感につながる危険性もある。重要なのは、自分たちの文化的特性を理解し、それを誇りに思うと同時に、他の文化に対する敬意と理解を失わないことである。
文化の「翻訳」と「対話」
来訪神信仰の価値を現代に活かすためには、その本質を現代語に「翻訳」することが必要である。
「まれびと」という概念は、英語では「stranger」や「visitor」では表現しきれない独特の意味を持っている。この微妙なニュアンスを、現代の言葉で表現し直すことで、より多くの人に理解されるようになるだろう。
また、他の文化圏の類似した概念と比較することで、人類共通の宗教的体験の普遍性を発見することもできる。キリスト教の「天使の訪問」、イスラム教の「ジンの出現」、ヒンドゥー教の「神の化身」なども、広い意味では「来訪神」的な体験と言えるかもしれない。
未来へ向けて:新しい「まれびと」を迎える準備
21世紀を生きる私たちの前には、かつてない規模の変化が待ち受けている。人工知能、遺伝子工学、宇宙開発、気候変動など、人類史を根底から変える可能性を秘めた「来訪者」たちである。
これらの新しい「まれびと」を迎えるにあたって、古い知恵が役立つかもしれない。未知なるものへの畏敬の念、変化への柔軟な対応力、共同体の絆を大切にする心―これらはすべて、来訪神信仰が育んできた人間の資質である。
技術革新や社会変動を単なる「進歩」として歓迎するのではなく、また「脅威」として恐れるのでもなく、「まれびと」として敬意を持って迎える姿勢が求められているのかもしれない。
「待つ」文化の復権
現代社会は「スピード」と「効率」を重視する。しかし、本当に価値のあるものは、往々にしてゆっくりと時間をかけて育まれる。人間関係、芸術作品、深い洞察、精神的成長―これらはすべて「待つ」ことによって得られるものである。
来訪神信仰が教えてくれるのは、この「待つ」ことの価値である。準備を整え、心を清め、そして静かに待つ。その時間こそが、人間を人間らしくするのかもしれない。
現代の私たちに必要なのは、この「待つ文化」の復権である。すぐに結果を求めず、深いところで何かが動くのを信じて待つ。そうした姿勢の中にこそ、本当の豊かさがあるのではないだろうか。
結びに代えて:祖母の言葉の真意
冒頭で紹介した祖母の言葉「お正月様が来なさる」を、今あらためて考えてみる。
祖母が待っていたのは、単なる年の変わり目ではなかった。新しい時間、新しい可能性、新しい恵みの到来だった。そして、それらをもたらす「見えない存在」への深い信頼があった。
現代の私たちは、科学的合理性によって「見えない存在」への信仰を失った。しかし、それと引き換えに失ったものも多い。畏敬の念、感謝の心、謙虚さ、そして何より「自分を超えた何か」への信頼である。
来訪神信仰を学ぶことは、過去への郷愁に浸ることではない。現代を生きる私たちが見失いがちな、人間らしい感受性を取り戻すためのヒントを得ることである。
今年の正月、もし可能であれば、少しだけ「待つ」時間を作ってみてはどうだろう。テレビを消し、スマートフォンを置き、静かに座って何かを待ってみる。最初は何も起こらないかもしれない。しかし、そうした時間の中でこそ、忘れていた何かが心を訪れるかもしれないのだ。
正月とは、人が神を待つ時間である。そして、その「待つ心」にこそ、私たちが受け継ぐべき大切なものが宿っている。現代という「新しい時代」に生きる私たちも、きっと何かを待っているはずだ。その「何か」に名前を与え、敬意を払い、心を開いて迎える―そうした姿勢の中に、古くて新しい豊かさが見つかるかもしれない。
ナマハゲはもうやってこないかもしれない。しかし、形を変えた「まれびと」は、確実に私たちの前に現れ続けている。その存在に気づく目を、失わずにいたいものである。



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