まじない

「初潮」は隠すものだった?|かつての通過儀礼と女の子の秘密

Steaming red rice offered to a girl reaching her first menstruation, with gentle grandmother’s hand – 初潮祝いと赤飯に込められた女性霊性と民俗の知恵 まじない
湯気立つ赤飯と祖母の手――それは初潮を迎えた少女に贈られた、祝福と静かな智恵の儀式だった。

《第4章 第3話|通過儀礼と人生のまじない》

赤飯に込められた祈り

祖母の手は温かかった。初潮を迎えた私の頭を撫でながら、彼女は「これでひとつ大人になったね」と優しく微笑んだ。台所からは赤飯の湯気が立ち上り、小豆の甘い香りが家全体を包んでいる。それは祝福の儀式だった。

しかし同時に、祖母は私に不思議な注意をした。「お日様の強い日は家にいなさい」「お祭りには近づいちゃいけないよ」——その時は理解できなかった言葉が、今になって深い意味を持って甦ってくる。

これは単なる迷信ではない。日本の民俗学を紐解くと、そこには女性の身体と霊性を守る、何世紀にもわたって受け継がれてきた智恵が隠されていることが分かる。現代の私たちが失いつつある、大切な「何か」がそこにはあった。

神聖と穢れが交錯する境界線

日本の民俗世界において、月経ほど複雑で矛盾に満ちた現象はないだろう。それは「ケガレ」として忌避される一方で、同時に畏敬の対象でもあった。この一見矛盾する態度こそが、私たちの祖先が女性の身体に抱いていた複雑な感情を物語っている。

出雲地方を歩くと、今でも古老たちから興味深い話を聞くことができる。「昔は月のものの女が田んぼに入ると、稲が枯れるって言われとったなあ」——しかし、わずか数百キロ離れた東北の山村では、全く逆の信仰が息づいていた。「お月様の血は田の神様への供え物じゃ。豊作をもたらすんじゃよ」

この地域による違いは何を意味するのか。実は、これこそが日本民俗学の醍醐味なのである。同じ現象に対する真逆の解釈は、それぞれの土地が歩んできた歴史と、そこに住む人々の世界観を反映している。

出雲の場合、古代からの神社信仰が色濃く残り、「清浄」と「不浄」の区別が厳格だった。一方、東北の山間部では、より古層の自然信仰が残存し、月経を大地の生命力と直結して捉えていた。同じ日本列島でありながら、これほど異なる月経観が並存していたのである。

「別火」が意味するもの──隔離か、それとも保護か

新潟県の奥深い山間部を訪れた時のことを今でも鮮明に覚えている。90歳を超える老婆が、遠い目をして語ってくれた昔話は、まさに民俗学者冥利に尽きるものだった。

「わしの娘の頃はな、初潮が来ると七日間『別火』で過ごしたもんじゃ。家族とは別の竈で煮炊きして、別の部屋で食事をとる。寂しいと思うかもしれんが、そうじゃなかった。その間に、ばあちゃんやお母さんから、針仕事や糸紡ぎ、女としての大切なことを教わったんじゃ」

これは単なる隔離ではない。現代的な視点で見れば差別的に映るかもしれないが、実際には極めて積極的な意味を持つ通過儀礼だったのである。

「別火」の期間は、少女が女性としての新たなアイデンティティを静かに受け入れるための神聖な時間だった。家事の手伝いから解放され、年長の女性たちに囲まれて、女性としての技芸と智恵を学ぶ。それは現代でいえば、一種の「リトリート」だったのかもしれない。

興味深いのは、この期間中の少女が決して「穢れた存在」として扱われていたわけではないということだ。むしろ、神聖な変化を遂げている存在として、特別な配慮を受けていた。食事は質素だが栄養価の高いものが用意され、身体を温める薬草茶が振る舞われた。

ユタが見た「カミダーリィ」の秘密

沖縄の民俗を研究していると、本土とは異なる月経観に出会う。特に興味深いのが、ユタ(霊媒師)たちが初潮を「カミダーリィ」(神降り)として捉えていたことである。

那覇の古いユタの家を訪ねた時、彼女は私にこう語った。「初潮というのはね、女の子の身体に神様が宿り始める印なのよ。でも、その力は正しく導かれないと、本人を苦しめることもある。だから、私たちは娘たちを見守り、導いてきたの」

沖縄の女性霊性は、月経を単なる生理現象としてではなく、霊的な覚醒の始まりとして位置づけていた。初潮を迎えた少女は、潜在的な霊的能力の開花期に入るとされ、経験豊富な女性たちによる細やかな指導を受けた。

これは決して迷信的な話ではない。現代の心理学でも、思春期の心理的変化と霊性の発達には深い関連があることが指摘されている。沖縄のユタたちは、科学的な理論が確立される遥か以前から、この関連性を直感的に理解し、実践的な対応法を編み出していたのである。

布に宿る女性の系譜

日本の民俗学を研究していると、「布」にまつわる興味深い禁忌と信仰に出会う。それは月経と深く結びついた、女性の手仕事の世界である。

岐阜県の山間部では、「月経中の女性が織った布は縁起が悪い」とされていた。一方、同じ中部地方でも長野県の一部では、「月のものの時に織った布には特別な力が宿る」として大切に保管されていた。

この矛盾するような信仰の背景には、女性の創造力に対する複雑な感情がある。月経は生命を創造する力の現れであり、それが織物という「創造行為」と結びついた時、人々は畏敬と困惑を抱いたのである。

特に印象深いのは、初潮を迎えた娘に母や祖母から手渡される「初潮布」の存在である。これは実用的な月経帯としての機能を超えて、女性の系譜を繋ぐ聖なる道具としての意味を持っていた。

京都の古い呉服商の家で見せてもらった初潮布は、それはそれは美しいものだった。白い木綿地に、母親が一針一針刺繍した小さな花模様。それは単なる布ではなく、母から娘への愛と願いが込められた、一種の「お守り」だったのである。

糸に込められた想い

さらに興味深いのは、この初潮布を作る際の糸にまつわる慣習である。多くの地域で、初潮布には「三代の女性」が紡いだ糸を使うことが推奨されていた。祖母が紡ぎ、母が織り、娘が刺繍する。三世代の女性の手を経ることで、布には単なる物質を超えた霊的な力が宿ると信じられていたのである。

この慣習は、女性の知識と技術の伝承システムでもあった。糸紡ぎから織り、刺繍まで、一連の技術を身につける過程で、少女は女性としての誇りと自信を獲得していく。それは単なる手仕事の習得ではなく、女性としてのアイデンティティ形成の重要な過程だったのである。

見えないものを見る眼──霊的変化への理解

現代の医学は、思春期の身体変化をホルモンの働きとして科学的に説明する。エストロゲンやプロゲステロンの分泌が月経周期を作り、それが女性の身体と心に様々な影響を与えることが明らかになっている。

しかし、かつての民俗知は、この変化をより全人的に捉えていた。身体の変化は同時に霊的な変化でもあり、少女の感受性や直感力の変化も含めて理解されていたのである。

東北地方のイタコ(霊媒師)の世界では、初潮を「霊眼開き」の前兆として捉えていた。多くのイタコが、初潮の頃から「見えないものが見える」ようになったと証言している。これを現代的に解釈すれば、思春期の脳の発達と感受性の変化が、通常では知覚できない微細な情報をキャッチする能力を高めるということかもしれない。

重要なのは、当時の人々がこうした変化を病的なものとして扱わず、むしろ女性の特別な能力として尊重していたことである。少女の「変化」は単なる身体的成熟ではなく、霊的な覚醒として理解されていたのである。

祭りと女性──聖と俗の境界線

冒頭で触れた祖母の言葉「お祭りには近づいちゃいけないよ」の意味を理解するには、日本の祭祀における女性の位置づけを知る必要がある。

多くの地域で、月経中の女性は祭りへの参加を制限されていた。しかし、これは単純な排除ではない。祭りという「聖なる時空間」と、月経という「霊的な変化」が互いに干渉し合うことを避けるための配慮だったのである。

例えば、熊本県の阿蘇神社では、月経中の女性は拝殿に入ることができなかったが、その代わりに特別な「女性の祈りの場」が設けられていた。そこは神域とは異なる聖性を持つ空間として、女性たちの祈りを受け止める場所だった。

興味深いのは、一部の祭りでは逆に月経中の女性の参加が求められていたことである。茨城県の某神社の春祭りでは、初潮を迎えたばかりの少女が「花嫁」として神輿に乗る慣習があった。これは少女の「新たな生命力」を神に捧げることで、豊穣を祈願する儀式だったとされている。

現代への問いかけ──失われたもの、残すべきもの

現代社会では、月経に関する taboo が次々と打ち破られている。月経について公然と語ることがタブーを打破する進歩的な行為とされ、「月経を隠す」ことは後進的だと批判される。確かに、それは必要な変化の側面がある。

しかし同時に、私たちは何か大切なものを失っているのではないだろうか。「かくれること」によって守られていた繊細さ、通過儀礼が持っていた深い意味、女性同士の絆が育む安全な空間——これらは決して復古主義的な郷愁ではなく、現代にも必要な智恵なのではないだろうか。

スマートフォンで月経周期を管理し、生理用品をコンビニで気軽に購入できる現代は、確かに便利になった。しかし、初潮を迎えた少女が一人で変化を受け入れなければならない孤独感や、身体の変化に戸惑う中で適切な指導を受けられない現状は、果たして進歩と言えるのだろうか。

身体の可視化がもたらすもの

現代の「身体の可視化」は両刃の剣である。月経について科学的に理解し、オープンに語ることで偏見を取り除く効果がある一方で、身体の神秘性や個人的な体験の特別さが薄れてしまう危険性もある。

SNSで月経体験をシェアすることが当たり前になった現代、初潮は個人的な通過儀礼から社会的な「情報」になってしまった。それは決して悪いことではないが、同時に失われているものがあることも認識すべきだろう。

かつての「かくれ方」は、身体の変化を社会的な文脈から一時的に切り離し、個人的な体験として深く受け止める時間を提供していた。それは現代でいえば、デジタルデトックスや瞑想リトリートに近い機能を果たしていたのかもしれない。

智恵の継承──現代における「別火」の可能性

では、現代の私たちは祖母たちの智恵から何を学び、どう活かすことができるのだろうか。古い慣習をそのまま復活させることは現実的ではないが、その背後にある智恵は現代的な形で継承することができるはずである。

例えば、初潮を迎えた娘と母親が一緒に過ごす特別な時間を作ること。それは「別火」ではないが、日常から少し離れた空間で、女性としての身体と心の変化について静かに語り合う機会になる。

あるいは、祖母から母、母から娘へと受け継がれる「女性の智恵」を現代的な形で再構築すること。それは月経に関する実用的な知識だけでなく、女性として生きることの喜びや困難、身体との付き合い方などを含む、総合的な人生の智恵である。

新しい通過儀礼の創造

現代のフェミニズム運動の中で、新しい形の初潮儀礼を創造する試みも生まれている。それは古い慣習の単純な復活ではなく、現代的な価値観と古来の智恵を融合させた新しい形の通過儀礼である。

例えば、初潮を迎えた少女を囲んで女性たちが体験談を語り合う「レッドテント」(赤いテント)と呼ばれる集まりや、母娘で参加する「月の儀式」ワークショップなどがそれに当たる。これらは古い「別火」の精神を現代的な形で復活させた試みと言えるだろう。

身体性の回復──デジタル時代の課題

現代の少女たちは、身体の変化をスマートフォンのアプリで管理し、月経に関する情報をインターネットで検索する。それは確かに便利で効率的だが、身体との直接的な対話が希薄になっているのも事実である。

かつての女性たちは、月の満ち欠けと自分の身体のリズムを重ね合わせ、季節の変化と身体感覚を結びつけて理解していた。それは科学的には根拠に乏しいかもしれないが、身体と自然、そして宇宙との繋がりを感じる豊かな体験でもあった。

デジタル技術の恩恵を享受しながらも、同時に身体性を回復すること。これは現代の女性にとって重要な課題である。祖母たちの「かくれ方」は、この身体性の回復に向けた智恵を提供してくれるのではないだろうか。

恥じることと慎重に扱うことの違い

現代の月経タブー打破運動は重要な意義を持つが、同時に注意すべき点もある。それは「隠すこと」と「恥じること」、「慎重に扱うこと」と「差別すること」を混同してしまう危険性である。

祖母たちの「かくれ方」は、月経を恥ずべきものとして隠すのではなく、神聖で大切なものとして慎重に扱う智恵だった。それは現代でいえば、大切な宝物を丁寧に保管することに近い感覚だったのである。

プライバシーを守ることと秘密主義は違う。個人的な体験を大切にすることと社会的な隠蔽も違う。この区別を明確にすることで、古来の智恵と現代の価値観を両立させることができるのではないだろうか。

女性の結束──失われつつある絆の力

かつての「かくれ方」が持っていた最も重要な機能の一つは、女性同士の絆を深めることだった。初潮を迎えた少女は、年長の女性たちに囲まれて女性コミュニティの一員として迎え入れられた。それは単なる知識の伝達ではなく、深い情緒的な支援体制でもあった。

現代社会では、核家族化と個人主義の進展により、こうした女性同士の絆が希薄になっている。初潮を迎えた少女が母親以外の年長女性から指導を受ける機会は少なく、女性としての成長を支える社会的なネットワークも限定的である。

しかし、この絆の力は現代でも必要とされている。思春期の少女たちが直面する身体的・心理的な変化は、一人では乗り越えるのが困難な場合が多い。祖母たちの時代の女性コミュニティが果たしていた支援機能を、現代的な形で再構築することが求められているのである。

儀礼の意味──通過することの大切さ

現代社会は「効率性」を重視し、「無駄」を排除する傾向がある。その結果、人生の重要な節目を「通過する」ための儀礼が軽視されがちである。しかし、心理学的な研究でも、適切な通過儀礼が個人の成長と適応に重要な役割を果たすことが明らかになっている。

初潮は、少女にとって身体的にも心理的にも大きな転換点である。この変化を単なる生理現象として処理するのではなく、人生の重要な通過点として認識し、適切に「通過する」ための儀礼が必要なのである。

祖母たちの「かくれ方」は、まさにこの通過を支える儀礼だった。それは少女が新しい自分を受け入れ、女性としてのアイデンティティを確立するための、欠かせないプロセスだったのである。

季節と身体──自然のリズムとの調和

日本の民俗文化は、自然のリズムと人間の身体のリズムを調和させる智恵に満ちている。月経もまた、月の満ち欠けや季節の変化と深く結びつけて理解されていた。

春の初潮は「新しい生命の始まり」として特に祝福され、秋の初潮は「実りの時」として豊穣の象徴とされた。これは科学的根拠に基づくものではないが、少女が自分の身体の変化を自然の大きなリズムの一部として受け入れるための、重要な枠組みだった。

現代の私たちは、エアコンと人工照明に囲まれて、季節の変化を感じることが少なくなっている。しかし、身体は依然として自然のリズムに影響を受けており、それを無視することで様々な不調が生じることも明らかになっている。

祖母たちの智恵は、身体と自然のリズムを調和させることの重要性を教えてくれる。それは現代の私たちにとっても、健康で豊かな生活を送るための重要な示唆を与えてくれるのである。

語り継ぐということ──民俗知の現代的意義

民俗学者として長年研究を続けてきて感じるのは、口承で伝えられてきた智恵の深さと豊かさである。文字に記録されない知識は、一見すると不正確で非科学的に見えるかもしれない。しかし、そこには長い時間をかけて洗練された、実用的で深い智恵が込められている。

初潮にまつわる「かくれ方」もまた、そうした口承の智恵の一つである。それは単なる迷信ではなく、女性の身体と心を理解し、支援するための総合的なシステムだった。

現代の私たちは、この智恵を単純に否定するのではなく、その核心にある価値を理解し、現代的な形で活用する方法を模索すべきである。科学的知識と民俗的智恵は対立するものではなく、むしろ補完し合うものなのである。

未来への提言──新しい「かくれ方」の創造

では、現代の私たちは祖母たちの智恵をどう受け継ぎ、発展させていけばよいのだろうか。最後に、民俗学者としての視点から、いくつかの提言をしたい。

まず、初潮を迎えた少女のための「現代版別火」の創造である。それは物理的な隔離ではなく、日常から少し離れた特別な時間と空間を設けることである。母親や祖母、信頼できる年長の女性たちと一緒に過ごす静かな時間。そこで身体の変化について語り、女性としての人生について考える機会を作ることができる。

次に、「現代版初潮布」の復活である。市販の生理用品も便利だが、それとは別に、母親や祖母が心を込めて作った特別な布を持つことの意味は大きい。それは単なる実用品ではなく、女性の系譜を繋ぐシンボルとなり、困難な時期を支える精神的な支えにもなる。

さらに、女性コミュニティの再構築も重要である。現代の個人主義的な社会において、女性同士の絆を深め、相互支援のネットワークを築くことは容易ではない。しかし、子育てサークルや地域の女性グループ、職場の先輩女性などを通じて、緩やかな女性コミュニティを形成することは可能である。

おわりに── 智恵を紡ぐということ

祖母の手の温かさを思い出しながら、この文章を書いている。あの時の赤飯の香りと、優しい微笑み。そして、今となっては深い意味を理解できる不思議な注意の言葉。

現代社会は確実に進歩している。医学の発達により、月経に関する正確な知識が普及し、女性の社会参加も拡大している。月経タブーの打破も重要な成果である。

しかし同時に、私たちは祖母たちが大切に守ってきた智恵を軽視してはならない。「かくれ方」は単なる差別的慣習ではなく、女性の身体と心を理解し、支援するための深い智恵だった。

身体を隠すことと身体を恥じることは違う。大切なものを慎重に扱うことと、それを否定することも違う。プライバシーを守ることと秘密主義も違う。これらの区別を明確にし、古来の智恵と現代の価値観を統合することで、より豊かな女性の人生を創造することができるはずである。

初潮は単なる生理現象ではない。それは少女から女性への、身体と霊の通過儀礼である。その通過を支えるために、女性たちは何世紀にもわたって静かな智恵を紡いできた。現代に生きる私たちも、この智恵を受け継ぎ、新しい形で発展させていく責任がある。

祖母たちの「かくれ方」は、女性の身体と霊を結び、人生の大切な通過を静かに支える、失われつつある智恵の記録である。

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